こんにちはオタクです。
オタクにとって自分が好きなコンテンツ/嫌いなコンテンツというのはアイデンティティの表出であり、尊重されるべきものだよね。
今日はTwitterであるツイート↓を見かけた。
ツイッターで映画感想をツイートする若い人の俺体感でかなりの数が本当に映画の悪口を全然言わない。つまらなかった映画は「自分には合わなかったかな〜」とか一言だけで話を終わらせるか言及自体せず、もっぱら面白かった映画のべた褒めばかりする。思うのだが、これは悪口を言うより残酷なのでは?
— 映画にわか(bot) (@eiganiwaka) April 28, 2023
"ツイッターで映画感想をツイートする若い人の俺体感でかなりの数が本当に映画の悪口を全然言わない。つまらなかった映画は「自分には合わなかったかな〜」とか一言だけで話を終わらせるか言及自体せず、もっぱら面白かった映画のべた褒めばかりする。思うのだが、これは悪口を言うより残酷なのでは?"
俺は若い人じゃないけど、まさにそんな感じで語るように心がけてるから、ちゃんとトレンドに乗れてるんだなと思ったのであった。
昔はさ、好きな作品のことは好きだと良って、嫌いな作品のことはこういう理由で嫌いだと自分の立場をハッキリさせるのがオタクとしての誠実さだろと思ってたんだよね。
だから嫌いな作品のことは明確に悪く言ってた。
ただ、最近は考えを改めるようになって、できるだけポジティブな感想しか言わないように意図的に心がけてる。
理由はいくつかある。あくまで自分自身がこう考えてそうしている、というだけの話だけど。
①SNS上での振る舞いの洗練
一番はこれだろうね。Twitterとかで好事例や反面教師をたくさん見て学習してる。
「この人、こういうのが滅茶苦茶好きなんだろうなー」っていうのが一貫して伝わってくる人ってもうそれが最強なんだよ。大好きなもの摂取して楽しそうにしてるとさ、なんか見てる方もほっこりする系ね。
逆に「この人とにかくこういうのが嫌いなんだなー」っていうのが分かっても、それによってその人の評価がすごくあがることってあんまりない。
②批判はありきたりな意見になりがち
作品を褒める時って極論、その人にしか見えてない幻覚とか誇大妄想が含まれててもOKなんじゃないかな。楽しんだもの勝ちみたいな。
器用な人なら、自分なりの視点・感性で作品の良さをアピール⇒SNS上での自分のキャラクターを確立していく、みたいな使い方もできると思う。やりすぎると「こいつやってんな」って感じになるかもだけど。
一方で批判は、客観的に正しい意見じゃないと成り立たないのがまず辛い。
でもそんな真っ当な批判はFilmarksとか見たらさ、もう何百人も同じこと書いてるから。
だからかなり掘り下げて掘り下げて、みんなが共通して何となく感じてるけど明確に言語化できてないような部分をすばり言い当てるみたいなことをしてやっとこさ価値のある意見になるわけだけど、①に鑑みてもそこまで頑張って批判的な意見を主張する意味があるのか?とは思う。
③作品へのアンサーというコンテンツ
今の時代誰でも何でもコンテンツ……SNS上での発言もコンテンツなわけで。
エンタメ作品をSNS上でdisるなら、そのdisり自体のコンテンツとしての価値も測られるということは意識する必要がある時代なんだと思う。
好きなコンテンツに対して漫画やイラストや動画で愛情表現することは、その表現自体もコンテンツとしての価値を認められやすいから発信する動機になるけど、逆はね……熱量高すぎると引かれちゃうんじゃないかな。
ただ個人的に思うのは「作品への批判を批判としてそのままお出しする事は避ける」という風潮はあるのかもしれないけど、嫌いな作品を反面教師として活かして自分が発信するコンテンツにはうまく取り込んでいる……みたいな形でちゃんとアンサーしている人も多いのではという気はする(想像です)
まああとあれだな、若いやつが「ドラゴンボールつまんねー」って言ったら大上段から叩き潰してくるようなインフルエンサーみたいなのがいる以上、炎上名売りしたいとかじゃない限りやってらんねーんだわ。
一般読者がドラゴンボール見て面白いと思うかそうでないかは自由だけど
— 平野耕太 (@hiranokohta) October 16, 2018
「エディター」を名乗ってる人間が、あれ程の化け物作品見て
何であれが世界で受けているか何も汲み取れないなら無能だし
何も汲み取らないなら低能だから
別に近づかなきゃいいんじゃないですか
こういうオタクにはなりたくない。